ついに、
2014年12月10日(水)NAMBA69の記念すべき1st ALBUM 『21st CENTURY DREAMS』を発売することが出来ました!本当にここまで来るには相当な事を乗り越えたから出来た事なんです。周りのみんな支えられ本当に感謝の気持ちでいっぱいです。そしてこの音源には自信あり!!!だって凄い魂込めたもん。曲を創るときから最後まで一曲一曲が大事な子供のように愛をもって接した。だって俺たちのファーストだもん。

夢は叶う。そして今まさに真っ最中。
中学生の頃に兄貴の影響でHi-STANDARDを聴いた。それまでは幼稚園からのピアノ弾きだったが、その衝撃からただただギターに夢中になって、死ぬ程ギターをコピってた。洋楽や色んなギターを聴くようになったのもここから。だからハイスタはただの神だったw。

そして月日は流れ、2007年、自分のバンドSTART FROM SCRATCHでメジャーデビュー。「対バンはハイスタでしょ」って豪語してたくらいやりたい事をやり順調なバンドだった。がメジャーの洗礼?自分達を見失い一旦活動休止。GREENSHIT81のアコースティックな活動と平行して一年間くらいプロスノーボーダー達と山でセッションをしていた。

そしてある日、難波章浩-AKIHIRO NAMBA-ソロプロジェクトのサポートギターの話をもらい、やらせてもらえる事になった!難波さんの第一印象は少年のようなキラキラしてる人。音楽の事しか考えないくらいの真っすぐさと人間性に一発で惹かれた。初めての現場はディズニーのスティッチのガバーソング「Hawaiian Roller Coaster Ride」のレコーディング。いい感じにレコーディングも終えライブもやる事に。その2回目のライブがFUJI ROCK FESという偉業。がむしゃらにギターに向かい、LIVEもレコーディングもメイクして行った。

その頃オレの親父は癌を発祥。闘病生活を送っていた。自分の心はだんだん2分されていき不安定な状態にあった。難波さんはそんな心の変化に敏感だ。もちろん大変なのも分かっている。1年くらいしたある日のレコーディング中、「今夜が山かもしれない。。」って母親から連絡が来た。焦り。迷い。不安。仕事としてここは「レコーディングを終わらせないと」って気持ちと、「早く帰らなきゃ」って気持ちが交錯した。
難波さんに言った。すると「今すぐ帰れ!」って言ってくれた。嬉しかった。帰ると親父は昏睡状態だった。だけどまだ息もあり、オレは親父に「音楽で生き続ける」って約束した。その夜親父は他界した。会えて触れられたのもこれで最後。声を聞く事出来ない。もう話す事も出来ない。「これなんだっけ?」とも聞けない。心にぽっかり穴が空いたようだった。

次の日のレコーディングはLOVIN' YOU。レクイエム。
ギターを持つと聞こえた「下を向くのを親父は臨んでない、キラキラして上向いてろ」ってどこかかから聞こえてきた。その時また音楽に助けられた感覚だった。
難波さんは優しく見守り、その後の親父の葬儀にも来てくれた。
そしてある日ライブのリハーサル時、やっぱりオレが下を向いて落ち込んでいた時、難波さんはオレにめっちゃ怒ってきた。「ステージに上がったらちゃんとやりやがれ!」って。オレは感情に負けて自分自身も誰もが臨まない状況い陥っていた。その時は分からなかった「なんで今そんな事言うんだ」とか思ってた。LIVEでは「もう関係ねぇって」吹っ切れてやった。けどそれはLIVEが終わるとすぐに分かった。「それだよケイゴ!」「親父もその姿が見たいんだろ!」って難波さんが言った。オレは泣き崩れた。言ってた意味が分かった。言ってくれてありがとう。そうやってオレは音楽に人に支えられて成長してきていた。

そして、その一年後には生まれ変わりとなる娘に恵まれた。

そこから難波章浩ソロは色んなメンバーチェンジがあり、初期ドラムにはヒロシさん(SUPER STUPID,Cokehead Hipstars)、MPCにゴンちゃん(ULTRA BRAiN)、それからもう少しバンド体制になって、ドラムにさんちゃん(SOUL MONKIEES)、ギターにAKILAくん(FLY☆81,NO END WHY)、ギターにLYOKIくん(TRIOL)色んな人が関わった。

初期のギターからいたオレはソロを活かすためのギタリストを模索した。「バンドやろうぜ!」って始めたものじゃない初めての経験。要求に応えなければサポートの意味は無く、色んな先輩のライブを見て吸収しまくっていった。そこで分からされる現実、乗り越えなきゃいけない壁は常にあり、負けそうになることもあった。オレじゃなくてもいいんじゃないか?とかなんでこれやんなきゃいけないんだとか、ネガティブに陥る事もあった。けどそれを一緒に乗り越える仲間が隣にいた。
それは姫路が生んださんちゃん!彼も同じ境遇にあり、タメでハイスタを聴いて育った同士。時には支え、そして支えられ二人で「絶対負けないぜ」っていう希望をもってやっていた。さんちゃんは人間的にも本当に最高でオレが息ずまった時でも、「ケイゴちゃんは大丈夫!」って自信を与えてくれた。さんちゃんがいたからこのプロジェクトにオレはさらに心を開ける事が出来た。そしてその壁一つ一つ乗り越えるたびに「このメッセージを与えてくれてありがとう」に変わって行き自分の成長、出来なかったものが出来るようになる喜びをも感じた。まるで中学生の頃夢中でギターをやっていた時の感覚に近かった。ここで音楽の偉大さにまた触れ、オレは人生というものを音楽とバンド、そして人と自然から学んでいるんだと再確認した。

そして、そこから濃密な時間を3年かけ、ハイスタはベースボーカル難波さんと、姫路が誇る世界のさんちゃんと、共に「NAMBA69」というバンドを結成しようぜ!って話になった。正直嬉しかった。バンドにすることが出来た「バンドやろうぜ!」って。「バンド!」「メンバーなんだ!」って。純粋にこれがやりたかった事なんだと実感した。だっていままでもそうやって組んできたバンドが大好きなバンドだから。
本当に人生なにが起きるか分からない。でも巻き起こすのは自分自身なんだなぁと改めて実感した。

バンドになってはじめて、今回は全ての曲を一緒にゼロからジャムって創った。はじめての作業だったが、それまでのソロの経験があるから互いを信頼しながら自由に出来た。テーマは「全ての解放」そして青春だった。そしてそれはそれは驚く程スムーズに神がかったように出来ていく曲達。悩みも無く、ポジティブなマインドに包まれながら一気に13曲を1ヶ月で完成させた。作り上げたときにはなんだか時空を超えた感もあった。

順調に楽曲も出来て、今度はその楽曲をどう撮るか。
前回のWAKE UP!!!をレコーディングしたニューヨークに渡米で行くべきか。色んなアイディアを出してるときに、プロデューサーのFLJは大野さんからライアングリーンの今のサウンドを聴かせてもらった。その衝撃はハンパじゃなかった。一発でお願いしますってなったw。
だってオレらが聴いていたハイスタ、NOFX、FAT系をレコーディングした人、そしてJAY-ZなどのHIP HOPアーティストもこなすという偉大な人。なにより本当に音がヤバかった。
オファーするとそのライアンが日本に来てくれると!!!おぉマジで人生なにがあるか分からない!

そしてレコーディング。ライアンはアシスタントにマサキという日本人ギタリストをエンジニアとして同行してきた。彼はライアンの右腕となり、彼もライアンサウンドに絶大の信頼を得ているチーム。本当にカッコ良かった!そしてなんと言ってもライアンは偉大。人間的にも壁も無くすぐに仲良くなれ、人も音も全てを包み込むような包容力に満ちた人間。それがサウンドにすぐ影響するんだって身を以て分かった。機材も自分のでは無く、アウェーの異国で、初めてのバンドを撮るなんてもの凄いことなのに、ライアンはレコーディングの最中ずっと自分のキャリアの中でもトップクラスのサウンドってテンションアゲアゲで言ってくれてた。ライアンはNAMBA69のもう一人のメンバーになっていた。チームだった。本当に光栄だし、めちゃめちゃ嬉しかった。ライアンは「YOUの音はYOUだけしか出せない音」っても教えてくれた。どんな音を作るかも大事だけどもっと大事なのは自分自信であるって事を教えてくれた。もちろん音を撮るんけど、オレの感覚的には人生を撮るレコーディング。夢の時間だった。

そして音は完成した!もの凄い音になって完成した。
チームスタッフ含め周りの人に支えられながら同じ方向に向かい、同じ時間を共に過ごした仲間じゃなければ作れない作品になった。アルバムデザインのアートワークも担当した。

やっと完成したこのNAMBA69のサウンドはこの3人にしか出せない。
このチームにしか扱えない。
この人たち以外ありえないってのがバンド。
誰一人変わっても違う。
だからバンドって奇跡なんだ。
家族なんだ。

歌詞にもあるように「世界はキミのもの」「今その時が来た」ってずっと夢を見て、今も夢の真っ最中でやっている。まだまだ見る夢はでっかいし!人それぞれ違った現実があるけど、全部繋がってる。だからこっからまた新たなスタートを切る事が出来たのが素直に嬉しい。

とにかく本当にこのファーストアルバムを聞いて欲しくて話がかなり長くなってしまったけど、
最後まで読んでくれてありがとう。

要は、LIVE会場で待ってるぜバディーズ☆


NAMBA69 K5